二師殿はホウ統や諸葛亮を祭祀する堂なのです。背景に東漢末期群雄割拠の戦乱状況を再現しています。二師殿の後ろに栖鳳殿があります。そこに安置してあるホウ統の彫像は横向きに立っている姿で、ホウ統が知謀にたけていて断固としている大将の風格を表しています。栖鳳殿後ろ壁の両側の扉を出ると、ホウ統の墓は目の前に現れます。しかし、この墓は後世の人がホウ統を記念するために建てられたもので、ホウ統の本当の墓はホウ統祠に近い落鳳坂のそばにあります。
ホウ統(179-214)は襄陽人で、字を士元といい、号を鳳雛といい、三国時代の劉備策士を担任し、諸葛亮と同じように有名です。「伏龍(諸葛亮の号です)、鳳雛、どちらかを手に入れば、天下を安定させる」と世間に知られています。ホウ統の墓は、214年に、ホウ統が流れ矢に当たって死亡した後、蜀漢の劉備が建てたものです。戦争でこの墓も祠もすべて破壊されてしまいました。清の時代、康熙三十年(1691年)に、修復されました。祠や墓の周りはたくさんの松の木とコノテガシワに囲まれ、青々と茂っており、景色がまるで絵のようにきれいです。
ホウ統祠墓の主な構造は、門庁(入り口の広間)、二師殿、栖鳳殿、墓の四部分に分かれています。建築全体は雅やかで古風的で、荘厳でしめやかです。本殿の裏にある石壁には晋代の書道家陳寿の書いた「龐靖侯伝」が彫られています。二馬亭は両側に建てられ、それぞれ白馬亭、胭脂亭と呼ばれ、劉備とホウ統が馬を交換することを象徴しています。
二師殿の前に、張飛が植えたと伝えられている「張飛柏」と呼ばれる大きいコノテガシワが二本あります。現在まで1700年余りの歴史があります。
二師殿はホウ統や諸葛亮を祭祀する堂なのです。背景に東漢末期群雄割拠の戦乱状況を再現しています。二師殿の後ろに栖鳳殿があります。そこに安置してあるホウ統の彫像は横向きに立っている姿で、ホウ統が知謀にたけていて断固としている大将の風格を表しています。栖鳳殿後ろ壁の両側の扉を出ると、ホウ統の墓は目の前に現れます。しかし、この墓は後世の人がホウ統を記念するために建てられたもので、ホウ統の本当の墓はホウ統祠に近い落鳳坂のそばにあります。
ホウ統祠墓の前の金牛古道は石畳の小道でわだちが深く刻まれ、コケがいっぱい生えています。近くには、諸葛亮の長子である諸葛瞻が魏国の鄧艾と血を浴びて奮戦して、命をささげた台があります。ホウ統祠墓周辺は険しい山岳地帯で奇岩が連なり、渓谷が流れ、しかも洞窟や泉があり、さすが蜀漢遺跡の唯一無二のスポットなのです。三国の古を懐かしみ、現代の美を観賞するおすすめのスポットです。
年に一度のホウ統祠墓の縁日は毎年正月二十三日(ホウ統の誕生日だと伝えられています)。白馬関で六日間、ホウ統祠墓の縁日が行われ、地元では規模が一番大きいお祭りの一つです。現在、人々が観光し、古跡を懐古し、素晴らしい景色を眺め、ピクニックに行くようなお祭りになります。
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